戦後昭和二十年代、株式会社北弘電社が株式会社弘電社北海道支社の頃、
数人の職人が集まり小杉組、中野組、若林組、本間組、荷軽部組(ニカラベ)、
東組の六組を作り、その体制のもと工事を行っておりました。
昭和二十六年、株式会社北弘電社は株式会社弘電社北海道支社を継承する形で改称設立しております。
その後、昭和二十八、九年頃の北海道経済は極めて厳しい状況にあり、
特に冬期間は全く仕事が無い状態が続き、昭和三十年一月には存続が危ぶまれる時期もありました。
このような状況の中、今は亡き、初代社長であられます泉社長が見るに見かね、
組長全員を集め協議した結果、各組が一つに団結し、民主的な経営体を作ったほうが季節的な失業はもとより、
さまざまな不況の波を乗り越えていけるのではないかと提案され、
社名も(北)弘電社工事施工企業組合と付けていただき、昭和三十年二月設立の運びとなりました。
当時は札幌本部のみ従業員数四十五名、社屋は大通西二丁目、現在の丸井今井大通館の場所にありました。
昭和30年頃の様子
昭和44年頃の「北弘電社」社屋
昭和三十年頃、地方の農村部ではまだ電力供給が遅れており電気が
通っていない時代に工事へ行った時(通称、農電といいます)の話ですが、
上げ膳据え膳で寝床もお客様用の綺麗な布団でもてなされたそうです。
あかりが点いた時は、電気屋さんは神様だと、挙げ句の果てには
うちの娘を嫁にもらってくれとも言われたそうです。
ある現場では絶対に工期が間に合わないと思われていた時、
五十人位の職人が自分達の仕事を終わらせてから応援に駆けつけ
一晩で完成させ、ゼネコンを驚かせたこともありました。